邂逅のデバイス



 あれは何だろう。
 少女は息を呑んだ。

 小さな小さな少女だけの秘密の場所。
 静かな静かな森の奥、少女だけの秘密の場所。
 ……少なくとも、昨日まではそうであったかもしれない。

 枝葉を伸ばした樹木によって昼間でも薄暗いこの場に、足を踏み入れる者はない。
 何も見えず何も感じないはずの人々が、しかしそれ故に自らが作り出した幻想にとらわれて、暗闇に恐怖し決して訪れることのない奥まった場所。

 大木に身を隠した少女は、秘密であったと少女が信じてやまないその場に目を凝らす。
 否、その大きな瞳はその場にいるものに向けられていた。

 湿った木肌もその身を包む生ぬるい空気も、少女は不快でたまらなかった。
 夜が更けたところでうだるような暑さがひくことはなく、水を浴びるためにここまでやってきた少女は思いがけない先客の存在に足を止めた。

 鬱蒼とした木々が空を覆いつくした暗闇の中、ぽっかりと開けた場所に、それはいた。

 小さな水の溜りを中心としてちょうど円を描くように白く輝いている空間を、漆黒の世界が包み込んでいる。
 上空に邪魔者のないその空間の真上には月が控えめながらも存在を主張し、視線をはわせれば生い茂った夏草と苔むした石にぐるりと囲まれた小さな池が、その身に受けた光を反射している。

 どうしたことだろう。
 一体あれは何者だろう。

 大木の影から足を踏み出せば、少女はまたたくまに輝く世界の住人となるであろう。
 自身の足先にある黒と白の境界は影がおりなす単なる自然現象でしかなく、決して越えられないものではないことくらい、少女は知っている。
 しかし、どこからかこみあげてくる感情に、少女は動くことすらままならなかった。
 幾層にも枯葉の積もった地面に封じ込められてきたであろう重苦しい湿った空気でさえ何者かによって侵入を阻害されているようで、少女の視線のその先は、いかにも冴え冴えと青白い。

 怖い。そう、怖いのだ。

 初めからそれが人でも獣でもましてやあやかしの類でもないことを少女は察していた。
 生きているのか、死んでいるのか。
 そんな自問には意味がない。
 どちらでもないのだ。

 水の粒子が音もなく大気に飛散し、物質の境界がしごく曖昧に感じられる中、ゆったりとした織物に包まれた肢体も、月光に照らされた肌も、かすかな振動にさえたなびく栗色の髪も、全てが周囲に溶け合ったその姿形は、少女が一瞬でも気を緩めればきっとその存在を見失うに違いない。

 全く異質のものであるはずなのに、不思議と似つかわしい。

 まるでこの世のものならぬ儚いそれが、少女の視線の先に顔を背けて横たわっていた。
 ほんのわずかな衝撃にも消えてしまいそうな銀の輝きを放つそれが、美しくて。

 怖い。

 その思いとは裏腹に、少女はじっとそれを見据えていた。

 突然、しかしゆっくりとそれの肩が小刻みに上下し、少女は素早く大木の影に身を潜める。
 音を立ててはならないと思いながらも鼓動は激しく高鳴り、身体は熱い。

 くすくすとそれが笑った。
 今度は一瞬にして背筋が凍りつく。

「出ておいで。とって喰ったりはせんよ」

 静寂を破る背後からの柔らかな声色に、不思議と気分が落ち着いた。
 この絹のようになめらかな声を持ったものが、獰猛な存在であるとは思えない。
 けれど少女は動かない。

「はて? そこにいるのは言葉の通じぬ者であったか。親とはぐれた小鹿であろうか?」

 芝居がかったおどけた口調に、少女はあやうく声をあげそうになった口を両手でふさぐ。

「どうしても姿を見せてくれないというならば、こちらから出向こうか?」

 さくりさくりと草を踏みしめる音がゆっくりと自身に近付いていることに気が付いて、少女は深く吸いこんだ空気をゆっくりと吐き出し、そろりと幹からうつむき加減の顔をのぞかせる。
 全身がじっとりと汗ばみ、整えたばかりの呼吸はすでに乱れ、今にも消えてなくなりそうな意識のしかしほんのわずかな部分がやけに鮮明で、まるで自身よりはるかに大きな何者かの意思に操られているかのような幻想を抱きながら、少女は眼前の光景に立ち向かう。

 意を決した少女が少しずつ目線を上げていくと、先ほどまで横たわっていたそれが今は二本足で立ち上がり、柔和な微笑をたたえた顔で少女を見下ろしていた。

 少女には馴染のない衣装をその身にまとい、口には、あるいは口だと思われるものには不可思議なものを咥え、前髪が少しだけかかった額にはこれまたおかしな紋様があるそれは、それさえなければ確かに人のようだと少女は思った。

 生きたもののようでありながら、生きたものではなく。
 死んだもののようでありながら、死んだものではなく。

「おまえはなにものだ」

 やっとのことでしぼりだした声は震えていて、しかし敵意を剥き出しにしたその調子にそれはほんの少しだけ首を傾けて困ったように腕組みする。

「そう警戒するでない。そなたこそ、こんな夜更けにどうしてここへ?」

 その問いかけに応えるかわりに少女は固く口をつぐみ、じろりとそれを睨みつける。
 小さな拳をぎゅっと握り締め、かすかに全身を震わせている少女の様子をうかがいながら、戸惑いなど微塵も感じることなく、自らのおかれた状況のあまりの滑稽さにそれは大いに満足していた。

 人が足を踏み入れぬ場所だとばかり思っていた。
 それがなんということであろう。
 よりにもよって小さな小さな少女に見咎められようとは。

「なにをしにきた」

 恐ろしいであろう。
 一目散に駆けて行きたいであろう。
 それにも関わらず貫かんばかりの鋭い眼光でもって自身を睨みつけ、威嚇をたっぷりと含んだ声色で立ち向かおうとしている少女がそれはいとおしくてたまらず、自然と頬がゆるむ。

 それはくるりと少女に背を向けるとゆっくりと水の溜りに歩み寄り、その円周上に配置された石のひとつに腰を下ろして、再び少女と相対した。
 大木からわずかにせりだす少女の右半身。
 若紫の衣装と白い手足のコントラストはまぶしく、長い髪を背後でひとつに結わえているがために、暗闇にくっきりと浮かび上がった卵形の顔がそれはそれは可憐な姿であり、そこだけ燃えるように上気した薔薇の頬とその身に潜む激情を宿した大きく鋭い瞳が、見る者に心地良い刺激を与えていた。

「ここで人を待っているだけだ。何も悪さはせんよ」

 もう少女が自身への警戒を解かないであろうことは十分に承知していたが、それはできるだけ穏やかに語りかける。
 少女は感じることのできる者であり。
 それ故に再び相見える日が来ることも、それは十分に承知していたがため。

 少女は結んだ口を開くこともせず、それを睨みつづけている。
 その様子に少々圧倒されながらそれも言葉を続けることができない沈黙の中、互いに視線を交わらせていた。
 時間があれば、それは自身の正体を口にすることもできたであろう。
 どちらにしろ遠からぬ将来、少女はきっと知ることになる自身のそれを。
 けれど緊張の糸が張り巡らされたこの目の前の少女を相手に、少女にとって未知の世界を語るほどの時間的余裕はなく、何より理解させるほどの自信も信頼関係も今はなかった。

 さらりとそれの髪が揺れた。
 もうひとつ不思議な気配が身に迫っていることに、少女は気が付く。と、同時に、自身の頭上に広がる枝葉がざわと互いにぶつかり合い、はらりと木の葉が舞い降ちる。
 そしてどうと吹き付ける大風。

 突然の出来事に少女は思わず両の目をつぶったが、次の瞬間にはすぐさま上空にその目を見開いた。

 上空からこの池まで降り注ぐ、邪魔するもののないはずの白い月光の道筋に、何かが浮かんでいる。地上から見上げる少女からは黒い影になってはいるものの、何やら細く長いもの、そしてどうやら人の形をしたような影が天空に静止し、そこからじっと此方を見下ろす強い視線が感じられ、少女は驚き息を呑む。

 さっと前方に視線を走らせると、先ほどまで腰掛けていた石の傍らに、それが立っていた。
 相変わらず周囲と同調した曖昧な存在が相変わらず柔らかに口の端をあげ、風にしなる柳のようなきりりとひきしまったその立ち姿に、少女は目を奪われる。

「迎えが来たのでな、そろそろ帰るとするよ。娘、驚かせてすまなかった」

 口元をほころばせ穏やかな目つきで少女をみつめていたそれのまわりにあった小さな影が、それの下に移動した。
 浮いている。
 ほんの少しではあるが、それの両足が地面から離れているのを少女は見た。
 少女があっけにとられたその瞬間、それはさっと少女の視界から消え去った。

 すばやく上空を見上げても先ほど確かにその目にうつったはずの影はもうなく、ただ冴え冴えとした白い光が眩しくて、少女はその場に座り込む。

 あれは何だろう。

 どれだけ自問したところで、答えがみつかるはずもない。

 夢でも幻でもない。

 それだけは、理解していた。

 少女はよろよろと立ち上がると、それが腰掛けていた石に向かって歩き出した。
 つい先ほどまで感じていた近寄りがたさは全く感じられず、難無く少女は水の辺にたどりつく。
 そっと石に触れると、水気を含んだ苔の感触だけがその手に残る。

 あれは何だろう。

 再び少女が見上げても、闇に浮かぶは白い月。





end


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★Thank-you note★
昨年の『夏の花』に引き続き、性懲りも無く第二回目のバースデープレゼントをゆかり様より頂きました。
ゆかり様とは本当に長いお付き合いをさせて頂いておりますですね…。私のストーカーぶりも衰えてはおりません。

今回リクエストさせて頂いたのは「オトナなコエンマ様」。
オトナの魅力溢れるコエンマ様の小説が読みたいです! とわかり易いアホさ丸出しでリクエストしたら、
頂いたのはこんなにも気品溢れる、雰囲気満点の小説。(いや、ゆかりさんから頂く小説なんだからそれは当たり前ですが…)
類まれなる情景描写にいちいち息を呑んでおりました。白い石がぐるりと水を囲んでいる様子とか、光と影の境界線とか、
ハイセンスな表現でものすごく重みを増して読者に迫ってくるような、静かでいて力強い文章。
こういう文章を書ける人になりたいです〜。10ぺんくらい生まれ変わったら出来るようになるかしら?
コエンマってこの世の人じゃないから、生きてもいないし死んでもいないんですよね。言われてみてそっか〜〜と納得しました。
おびえる少女に微笑を絶やさず、時に少しおどけてみせて、なるべく警戒心を与えまいとする彼。これをオトナの魅力と言わずして何と言う!!!

ちなみに、この小説の詳しい設定をお聞きしたところ、少女は幻海で、場所はどこか森の奥ということで、原作中に出てきたシーンを特定してはいないようです。
実はきちんとお聞きするまでこの少女が誰なのか私はわかりませんでした。若紫の衣装…というのはアニメでそういう設定があったのでしょうか?
三つ編みとか桃色の髪とかいう描写があれば一発でわかったと思うんですが(笑)しかも原作中の設定や時間が使われていないので、一層謎に包まれていました…(笑)
月に浮かび、コエンマを迎えに来たのは、ぼたんではないかということです。
これも、櫂がないし、明るくしゃべったりなんかしないしむしろ強い視線で見下ろしている人、本当にぼたんなのかな〜もしかして雰囲気的にあやめのほうが合ってるのかな〜と自信が無かったのですが、これは当たりました(^^;)
本当はゆかりさんに設定をお聞きするまで、何度も読み返してはたくさん間違った方向に想像を膨らませては楽しんでいたことはここだけの秘密です(笑)
あ〜楽しかった…。妄想…(そこなのか!)

こんな美麗な文章をもらってしまったら私、もう小説書けなくなりますよ!(笑)
宝物をまたひとつ、どうもありがとうございました。ゆかり様愛してます…



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